すわのものがたり〜神話編〜

『神話の時代』

鬱蒼と繁る木立を抜けて、急な坂を昇りきると、突然に草原に出た。

 

そして、見下ろす遥か眼下に、一面の湖水が広がり、景色の変化を告げた。

 

タケルは、塩嶺から見下ろすこの景色が好きで、足しげく眺めに訪れた。

 

後に『諏訪湖』と言う名で呼ばれる湖は、21世紀の現代よりはるかに広く、標高800bまで、その喫水線があった。

 

今の平地はほぼ全て湖水であり周囲の山々に囲まれて、神秘的な光景を写し少年であるタケルの心を虜にしていた。

 

小谷の山奥で生まれたタケルは、木崎、中網、青木の3つの湖は幼少より親しんだ景色だったし、母であるヌナカワヒメが住まう糸魚川の館から見える日本海の大海原にも憧憬の念は抱いていたが、奥山の山懐に大きく広がり、蒼い光を放つこの湖には、なにか、これらとは違った『神秘』を感じたのである。

 

初めてこの湖を観たのは、まだ幼い頃、叔父である安曇族の長(おさ)であるホタカミに手を引かれ登ったこの場所からの景色だった。

 

タケルは、峠を降りて湖まで行きたいと言ったが、ホタカミは、『この峠を境に向こう側は、モレヤと言う恐ろしい呪術を使う一族の統べる土地だ。たから、ここを越えて湖に降りることは叶わない。』と、タケルを制した。

 

以来、タケルはホタカミの言葉を守り、峠より下ることはなかったが、折に触れ、この湖を眺めに来ることはやめなかった。

 

そして、今回は少し違った気持ちで、湖を眺めていた。

 

元服の年頃を迎えたタケルは父の住まう出雲(イズモ)の宮に出仕することとなり、慣れ親しんだ安曇(アズミ)を離れることになった。

 

今日は、湖に別離(わかれ)の挨拶をするとともに、今度戻って来たときは、力をつけてこの峠を下り、湖の畔に立ちたい、その誓いを新たにしたのである。

 

後にタケミナカタと呼ばれるイズモのタケルのものがたりをこれから語って行くのだが、それには、少し時代(とき)の川をさかのぼることが必要であろう。

 

時間は遡ること十数年、場所は高志(コシ)の国からこのものがたりを語り始めよう。

 

『出雲の国と高志の国』

タケルが生まれる10年ほど昔。

 

その頃のこの国は、多くの小国に別れ、それぞれが自給自足の暮らしを行うのが国の姿であった。

 

しかし、ある年のこと。

 

九州北部宗像を故郷とする安曇(アズミ)族が、船により日本海沿いに航海に出でて、出雲、若狭、高志(越=コシ)と民族の大移動を行うと同時に、高志の国からは上陸をし、アルプスの険しい山中にわけいり、いまの安曇野に根付いたのである。

 

高志の国では、代々女性が国を治めてきたのだが、そのヒメのうちの一人が安曇族の大王であるホタカミと結婚し、平和のうちに友好関係をむすんだのである。

 

山の中に入った海の民族の名残として、安曇野から松本平らにかけては『お舟まつり』が現代も盛んにおこなわれている。

 

諏訪大社下社のお舟まつりの柴船が穂高神社のそれに酷似しているのは、下社の女神ヤサカトメが安曇族の神であることにおおいにかかわりがあるのだが、それはまた別の話。

 

高志の国では、糸魚川周辺で 勾玉の原料になる翡翠(ひすい)を多く産出したので、それを安曇族の海運の力により、西日本の諸国にて売買し、その見返りに、鉄器や稲などの輸入を行う交易により、国力を高めていったのである。

 

この頃の信濃(科野)の国は、弥生人である安曇族の支配する安曇野と、縄文人であり、黒耀石の交易で中日本から南東北に勢力をのばしたモレヤの一族が支配する諏訪(州羽)、伊那、佐久、水内などに別れ、ちょうど塩尻峠を境に弥生と縄文の時代が別れている状態であった。

 

同じ頃、信濃からも高志からも遥かな西の出雲の国において、新しい大王が即位したのである。

 

父スサノオには100人を超す子息がいたのだが、因幡の白兎伝説にあるような、葛藤の後、末子であるオオナムチが国王に即位。

 

名もオオクニヌシと改めて、出雲王国の大王に就いた。

 

国王に就いたオオクニヌシは、戦と和議の両方を駆使してたちまち各国を併合。

 

数年後には、西日本から中日本にかけて領土を持つ、大国の国主となった。

 

そして、雲をもつく大きな館(やしろ)を出雲に築いたのである 。

 

オオクニヌシは、領土拡大の方策として、攻めいる先を武力で制圧するだけでなく、政略結婚等による柔らかな併合を得意としていた。

 

そして、今まで安曇族により交易を行っていた高志の国もその手法を用いることにした。

 

その頃の高志の女王はヌナカワヒメと言って、絶世の美女であった。

 

因幡、若狭、能登と領土を広げて来たオオクニヌシは、高志の国(いまの越前、越中、越後)に入るにわたり、自らがヌナカワヒメを嫁取ることを考えた。

 

そして、ヌナカワヒメに恋文を送るのだが、ヌナカワヒメはなかなか応じない。

 

諦めきれないオオクニヌシは、古事記で有名な100通を越えるラブレターを送り続け、ほだされたヌナカワヒメは、ようやく求婚に応じたのである。

 

ここで一言。現代では常識の違いで忘れ去られ勝ちだが、この頃から、平安時代にかけては、『通い婚』と言って意中の女性の実家に、男性が通って求婚、結婚するのが当たり前であったことを付け加えたい。

 

源氏ものがたりで、光源氏が愛する女性の元に通ったのも、そのあらわれである。

 

オオクニヌシの場合、そのスケールが大きかったと理解されると良いと思う。

 

ともあれ、ヌナカワヒメとの結婚で、翡翠の産地をオオクニヌシは、手に入れたのである。

 

そして、もうひとつ、オオクニヌシはヌナカワヒメとの交合(まぐわい)により、ヌナカワヒメのその腹にひとつの命を宿らせた。

 

宿した命が、イズモのタケル、のちのタケミナカタになるのだが、それはまた、次回の話。

 

『イズモのタケル』

オオクニヌシの赤子を宿したとわかったヌナカワヒメは、高志の国をオオクニヌシに差し出し、自分(みずから)は出産の準備のため小谷の山奥(いまの白馬村)に庵を築き、そこに入った。

 

そして、十月十日の後(のち)玉のように可愛く、元気な男の子(おのこ)を出産した。

 

その知らせは、程無く出雲にも届いた。男の子(おのこ)の出生を喜んだオオクニヌシは、この国でいちばん猛々しく元気に育つようにと、『タケル』と言う名前を考え、ヌナカワヒメにそれでよいか?と尋ねた。

 

ヌナカワヒメは、『なんと素晴らしい名前でしょうか!!この子がこの国でいちばんの武勇を備えた勇者に育ちますように』と、オオクニヌシに感謝したと言う。

 

生まれたタケルは、三歳までを母と小谷にて過ごし、その後、叔父である安曇族のホタカミに預けられ、武術や呪術の修行に入った。

 

母のヌナカワヒメは再び糸魚川の館に戻って行った。

 

活発な少年であるタケルは、安曇野の大地を駆け巡って、時にホタカミから狩りや武術、呪術を教わり、天性の勘の良さで、次々とそれを身に付けていった。

 

叔父のホタカミは、そんなタケルが誇りにも思え、広い安曇野のあちこちに修行につれ歩いた。

 

そんな、タケルと、安曇の穂高の屋敷で、共に育った女の子がいた。

 

歳はタケルより2つ下、ホタカミの娘で、名をヤサカトメと言う。

 

二人は、幼馴染みとして、時に仲良く遊びあった中であった。

 

しかし、お互いに成長するなかで、それは、淡い恋心へと変わって行き、いつしか、お互いがお互いを意識するようになっていったのである。

 

そして…元服により出雲に昇ることになったタケルは、塩嶺から見る諏訪湖に別れを告げ、叔父のホタカミに長(なが)の教導を感謝し、いよいよ安曇の地を後にして出雲へ旅立つ日がきた。

 

ホタカミは、『ぬしはこの国でいちばんの猛者だ、誰に気後れすることもなく父上と対面して来なさい』とタケルを送り出した。

 

タケルが、穂高の屋敷を出て沓掛(いまの松川)辺りに差し掛かったところ、道の脇から進み出た一人の娘がいた。

 

それはヤサカトメであった。

 

ヤサカトメは、手作りの勾玉の首飾りをタケルに差し出すと、『この首飾りを私だと思って掛けてください。きっとタケル様を守ってくれましょう』と話した。

 

そして、タケルの眼(まなこ)を真っ直ぐ見詰めて『タケル様が再び戻られて信濃の王となったときは、私のことを妻として嫁取って下さいますか?』と尋ねたのである。

 

タケルは、勾玉の首飾りを身に付けると、ヤサカトメを抱きしめ、『私が戻って来たときは必ずそなたを妻としよう。それまで暫し待っておくれ。』と声をかけた。

 

そうして、安曇を後にしたタケルは、糸魚川の母の屋敷に立ち寄った。

 

母のヌナカワヒメは、『タケルの名前に恥じないようしっかり働くのですよ。』と激励し送り出した。

 

タケルは、糸魚川から船に乗り、日本海を港伝いに出雲へと航海したのである。初めての海と、父のいる出雲へと向かう高揚でタケルの胸は高鳴っていた。

 

そして、6日の航海ののち、タケルは、出雲の入り口美保の関に上陸したのである。

 

『タケミナカタ』

美保関に上陸したタケルは、まず、かの地を治める、兄コトシロヌシと対面することとなった。

 

独りっ子であったタケルは、母こそ違えども、同じ兄弟に会うのを楽しみにしていた。

 

対面は、到着から一夜あけた翌日行われた。

 

『兄上、信濃より参りましたタケルでございます。お目通り叶い祝着至極でございます。』

 

下座に座り挨拶を済ましたタケルが頭を上げ上座を見上げると、そこには、優しげな笑みを浮かべた兄コトシロヌシの姿があった。

 

しかし、タケルの予想と反して、その姿は少し弱々しさを感じさせるものでもあり、タケルは一瞬狼狽した。

 

その狼狽を見透かしてか、コトシロヌシは、こう、タケルに声をかけた。

 

『はるばる信濃よりご苦労であったな。私も逢えて嬉しいぞ。見ての通り、私は体が少し弱い。武芸は苦手でもある。そなたは武芸、呪術共に達人だと聞いた。それに、良い面構えをしておる。出雲王朝のこれからを背負うのは、ぬしのような強き男(おのこ)だ。国の弥栄のためしっかり働いてくれ。』

 

その言葉に優しさを感じたタケルは、兄弟とはかくあるものかと感じ『ありがとうございます。不詳ながら、父上、兄上の国作りのお役に少しでもたてたら幸せに存じます。以後お見知りおきを』と、返答を返した。

 

堅苦しい挨拶のあと、互いに打ち解けた二人は、世が更けるまで歓談し、兄弟の絆を深めたのである。

 

美保関からオオクニヌシの宮廷のある杵築(いまの出雲市)までは半日の道程。

 

中海、宍道湖と2つの大きな湖を船で渡り、杵築の宮に着いたのは夕暮れが迫る頃であった。

 

その道程、目にする景色全てがタケルにとっては新鮮であり、ワクワクするものであった。

 

杵築の宮に着いたタケルは、その夜、早速、父のオオクニヌシの召し出しを受け、対面することになった。

 

『父上様、お召しありがとうございます。タケルめ、信濃より馳せ参じて参りました。』そう挨拶するタケルの盛観な日に焼けた姿を見て、オオクニヌシは『立派な男(おのこ)に育ったようだな。何より祝着至極じゃ。』と答え、『明日はそなたの元服じゃ。今宵はゆるりと休むがよい。』と、労を労った。

 

タケルは、初めて対面した父に、例えようのない高貴さと強さ、優しさを感じ、想像していた以上の父であったことに感動した。

 

そして、翌日。杵築の宮でタケルの元服の式が行われた。

 

父、兄同席の上新しい剣と衣服、鏡を与えられ、式は滞りなくすすんだ。

 

最後に、父オオクニヌシが『無事元服も済み、お主も大人になった。

 

そこで新しい名を与えよう』と語った。

 

『お主の故郷信濃には、多くの河(かわ)や湖がある。その河や湖のある地を統べるものとして水潟(みなかた)のタケル、すなわちタケミナカタを今日から名乗ると良い。』こうして、タケルは名をあらためタケミナカタとなったのである。

 

『科野の国へ』

元服を済ませたタケミナカタは、暫くは杵築の宮にて、武芸や呪術の稽古に励む生活を過ごした。

 

安曇の地にて叔父から仕込まれたタケミナカタは、出雲においても負けることを知らず、その武勇伝は出雲全土に広く広がる事となった。

 

しかし、謙虚なタケミナカタは、出雲流の武術や呪術の良いところを巧みに取り入れ、ますますその腕を上げていったのである。

 

2年の月日が流れた。タケミナカタは、オオクニヌシの召し出しにより、杵築の宮に参内した。

 

父、オオクニヌシは、タケミナカタにこう話しかけた。

 

『そなたは、もう、この出雲ではかなうものなき勇者になったと聞く。』『恐れいります。』タケミナカタは謙虚に答えた。

 

『そこでじゃ』オオクニヌシは話を続けた。

 

『そなたにやってもらいたい仕事がある。信濃の攻略じゃ。』

 

『信濃の国のうち、安曇野は我が一族の安曇族の支配する土地だが、水内、小県、佐久、諏訪はまだまだ我らの力が及ばない土地である。これらを攻略するにあたり、そなたを将軍に据えようと思う。いかがじゃ?』

 

タケミナカタは『ありがたき幸せ。我が故郷信濃の統一が叶えばこれに勝る幸せはありません。ぜひわたくしにおまかせいただきたく存じます。』と、高揚した気持ちで答えた。

 

オオクニヌシは、『では、そなたに500の兵を与えよう。無事の攻略を祈る』と、タケミナカタにもうしわたした。

 

タケミナカタが感の礼をして退出しようとすると、オオクニヌシはタケミナカタを呼び止め、こう付け足した。

 

『信濃の攻略は、さほど難しくなかろう。ただ、諏訪には、強き呪術を操るモレヤと言う族長に率いられた一族がいる。心してかかるように』タケミナカタは、幼きころ叔父のホタカミからも同じことを言われたことをおもいたした。

 

『この峠を越えて諏訪の地には、モレヤと言う恐ろしい呪術を使う一団がおります。

 

決して峠から向こうには行きませんように。』俺は、そのモレヤと戦うことになるのか!!そう思うと、タケミナカタの心は武者ふるぃにゆさぶられた。

 

『父上、ありがとうございます。わたくし、心してこのお役目果たして参ります。』タケミナカタはそう言うと父の前から恭しく退出した。

 

タケミナカタが兵500を率いて出雲をたったのは、梅雨も上がる7月の初めだった。

 

美保関から船で直江津まで。途中の糸魚川では、母のヌナカワヒメの見送りを受け、タケミナカタは久々に穏やかな時を過ごした。

 

直江津から陸に上がり、妙高高原をめざす。高原を越えて、野尻湖が見渡せるところまでは、恙無くやって来た。

 

いよいよ、ここから先が信濃の国である。

 

『モレヤとの戦』

信濃へ入ったタケミナカタの軍勢だが、抵抗らしい抵抗もなく、平和裏のうちに水内、小県、佐久と併合して行った。

 

唯一抵抗があったのが塩田の庄のシマズ氏と言う豪族であった。

 

シマズ氏は、地の利を生かし、ゲリラ戦を展開し、タケミナカタの軍勢を撹乱したが、タケミナカタの呪術の前に主が捕縛され、敗退したのである。

 

タケミナカタは、シマズ氏を殺すことなく、『我の配下に入らぬか?』と問うた。

 

シマズ氏は、タケミナカタの度量の広さに感激し、忠誠を誓ったのである。これで、残るは諏訪の攻略のみになった。

 

幸いにもシマズ氏が、モレヤと同族で、タケミナカタは、事前にモレヤの軍勢の情報を得ることが出来た。

 

それによると、モレヤの軍勢は、2000人とタケミナカタの軍勢の四倍。

 

いずれも猛者揃いで、鉄の剣を操り、更に、族長のモレヤは、天候を操り、雷や風や火を起こす呪術を操るとのことであった。

 

戦(いくさ)をするには、まず地の利である。

 

塩田の庄からは、大門峠を越えて池の平湿原(現在の白樺湖)から音無川に沿って茅野に出るのが順当であるが、それでは、モレヤの2000の軍勢の餌食である。

 

そこで、タケルは、大門峠から、霧ヶ峰を通り、和田峠から、砥川沿いに山を下り、諏訪湖の対岸に兵を進め、諏訪湖の対岸、岡谷の辺りを決戦の場にすることにした。

 

霧ヶ峰を越えて、下諏訪に出ると、諏訪湖の対岸に狼煙が見えた。

 

モレヤの軍勢の出撃の合図である。先にも話したが、この頃の諏訪湖は、標高800bラインまでが湖水であり、いまの諏訪の平はほぼ湖水の下と考えて良い。

 

そこで、タケミナカタは、軍勢を諏訪湖の出口の天竜川の河口の橋原(はしばら)に布陣。

 

湖の反対から進軍してくるモレヤの軍勢を待った。

 

両軍は橋原の地で天竜川を挟んで向かい合うことになった。

 

最初は、弓矢による応酬があったが、弓矢の技に利のある出雲軍の矢に、モレヤの軍勢は次々と倒されて行った。

 

形勢不利を悟った族長のモレヤは、タケミナカタに一騎討ちを申し出た。

 

『出雲の将軍よ、ここは一騎討ちにて勝敗を決しようではないか。

 

勇者なら受けてたたれよ!!』タケミナカタは『望むところ!!いざ参らん』と受けて立った。

 

最初は、呪術の合戦である。モレヤが火をおこし、タケミナカタを火焔で包囲すると、タケミナカタは雨を降らせ、その火を全て消してしまった。

 

ついでモレヤが雷雲を呼び、タケミナカタの頭上に雷を呼ぶと、タケミナカタは大風を起こして、その雷雲を全て吹き飛ばしてしまった。

 

最後は直接の対決である。

 

モレヤが鉄(かんな)環の錫杖でタケミナカタに挑みかかると、タケミナカタはその場に繁っていた藤の蔓をとり、そこに呪術を込め相対した。

 

すると、モレヤの鉄環は粉々に砕けたのである。こと、ここにいたり、モレヤは敗北を悟り、『我が負けにございます。』『この上は命をとるなり、ご随意に。』と、敗軍の将として述べた。

 

しかし、タケミナカタは、『そなたの呪術は、平和に使ってこそ本領をはっきするのだ。それにこれからも諏訪の地を治めるには、そなたの力がいる。われに使える気はないか?』と尋ねた。

 

モレヤは、タケミナカタの懐の深さに感激し。

 

『かしこまりました。これからはあなた様の下で諏訪の民のため粉骨砕身いたします。』と、約束したのである。

 

諏訪を攻略したことにより諏訪が治めていた伊那もタケミナカタの領地となり、ここに、タケミナカタによる信濃統一はなったのである。

 

タケミナカタは、幼い頃塩嶺から憧れて眺めていた諏訪湖のほとりに、いま立っていることに、深い感激と感慨に耽っていた。『とうとうここまで来たぞ』

 

『国譲り』

モレヤに勝って、名実ともに 信濃の王になったタケミナカタだが、諏訪にその住居を求め探したが、狩りをする八ヶ岳と、諏訪の湖の両方が眺められ、モレヤの信仰、『ミシャグジ』のイワクラのひとつである御霊位岩(ごれいいいわ)のある扇状地に居を構えた 。

 

いまの前宮の地である。

 

イワクラとは、古代信仰で大きな岩や奇岩に神が宿るという信仰の形態で、モレヤの奉ずるミシャグジはこの信仰そのものであった。

 

タケミナカタは、モレヤの信仰を巧みに取り入れることにより、諏訪の支配を堅固にしてゆき、モレヤも、自らの信仰を残して行くという、ちつ持たれつの関係が、ここに築かれたのである。諏訪の攻略を終えたタケミナカタは、久しぶりに安曇を訪ねた。

 

叔父ホタカミ戦勝報告をするとともに、もうひとつの約束を果たすためである。

 

タケミナカタは、ヤサカトメを訪ね、正式に求婚した。

 

『約束通り、信濃の王になり戻ってきました。

 

我が妻となってもらえるだろうか?』『私はこの時をずっと待っていました。あなたの妻となりましょう。私を諏訪にお連れください。』こうして、二人は夫婦(めおと)となり、共に諏訪の前宮に住むことになったのである。

 

『もうひとつの国譲り』

諏訪の地において、土着の一族モレヤから、出雲族のタケミナカタに、国譲りがなされたその頃、出雲においても、もうひとつの国譲りがなされようとしていた。

 

朝鮮から、海を渡り、九州地方にその勢力を伸ばした、天孫族が、関門海峡を渡り、長門へと進軍、出雲を脅かし始めたのである。

 

その知らせは、すぐに、出雲のオオクニヌシの元に届けられた。

 

『天孫族は、アマテラスという女王に治められた国だそうでございます。韓国(からくに)渡来の最新の兵器を用い、馬(うま)という、1日に何十里も駆ける四足の獣に乗って、猛烈な勢いで進軍して参ります。』この頃の日本には、馬がいなかったため、馬乗にて攻めて来る天孫族が、出雲族には、脅威に感じられたのである。

 

周防、長門、安芸、石見と、出雲の領地は瞬く間に席巻され、その軍勢は、いよいよ出雲に迫って来た。

 

天孫族からは、再三の降伏を促す使者が出雲に送られてきたが、そこは才長けたオオクニヌシのこと、全て懐柔してしまった。

 

しかし、しびれを切らした天孫族は、最強と言われる、タケミカヅチとフツヌシの軍勢を出雲に派遣した。

 

ミカヅチ(雷)を操るタケル、すなわちタケミカヅチは、その呪術により、出雲の軍勢を一蹴。

 

オオクニヌシの住まう杵築の宮に迫った。

 

オオクニヌシは、信濃諏訪のタケミナカタに、援軍を要請。

 

タケミナカタは、軍勢を率い、急ぎ出雲を目指した。

 

間近に迫ったタケミカヅチは、オオクニヌシに降伏するよう使者をたてた。

 

オオクニヌシは、『私には二人の後継者がいます。その子にまずはお聞きください。』とタケミカヅチに告げた。

 

そこで、タケミカヅチは、先ず、美保関にいる長子のコトシロヌシに降伏を迫った。

 

コトシロヌシは、タケミカヅチの恐ろしさに恐れをなして、舟に乗り、その舟もろとも日本海に身を沈め降伏した。

 

そこへ、タケミナカタの援軍がようやく到着した。『我が国出雲を掠め取ろうとする身の程知らずはどこにおる!!我がお相手つかまつろう』

 

『タケミナカタとタケミカズチ』

タケミナカタが出雲に到達したときは、出雲の国もほとんど席巻された後で、かろうじて、オオクニヌシが杵築の宮に立て籠り、タケミカヅチの猛攻から、宮を守っている状態だった。

 

到達したタケミナカタは、先ず父オオクニヌシに、謁見したが、オオクニヌシの意見は、降伏へと傾いていた。

 

タケミナカタは、『父上、私が来たからには、むざむざと破れることはありません。私にお任せくださいませ。』と力強く宣言した。

 

オオクニヌシも、『そなたがいたら百人力じゃ!!出雲の存亡をかけた勝負、宜しく頼む』と、タケミナカタを励ました。

 

タケミナカタと、信濃の軍勢は、地の利を生かした奇襲戦で、タケミカヅチの天孫族軍勢を撹乱、杵築の宮の西の稲佐の浜までと押し返した。

 

不利を悟ったタケミカヅチは、呪術により雷を起こして、その雷に打たれタケミナカタの軍勢も大きな打撃を受けた。

 

お互いに痛手を負った両軍は、最後は両軍の将軍同士の一騎討ちにて勝敗を決しようということになった。

 

『我が出雲の国を掠め取ろうとする不届きものよ、力比べで勝敗を決しようではないか。』『望むところ、いざ参らん!!』タケミナカタは、タケミカヅチの両手をつかみ、組伏せようとした。

 

しかし、その時、タケミカヅチの両手が鋭い剣となり、タケミナカタは思わず手を離した。

 

すると、今度はタケミカヅチがタケミナカタの両手をつかみ、猛烈な力でタケミナカタの両手を握り潰してしまった。

 

深手を負ったタケミナカタは、杵築の宮の父オオクニヌシのもとに逃げ込み、『申し訳ありません。力及ばず敗れてしまいました。』と報告した。

 

それにたいしてオオクニヌシは、『そなたは信濃まで退却せよ。信濃には、モレヤや、安曇の民、そなたの子供たち、猛者がたくさんおる。

 

信濃に、新たな王朝をたて、それを護るのだ!!』と命じた。

 

『かしこまりました。しかし、父上のお命はいかがなりましょう』『わしも出雲の長としてむざむざと死にはせぬ、さあ、行くのだ!!』『わかりました。父上もお元気で。』そういうと、タケミナカタは信濃に向けて退却を開始した。

 

稲佐の浜から、程無く杵築の宮に入ったタケミカヅチは、オオクニヌシの降伏を受け入れた。

 

オオクニヌシは、降伏の条件として、次のように述べた。

 

『敗れた以上、私も命を差し出しましょう。しかし、私のもとには八百万(やおよろず)の神がおります。その神々を鎮めるため、ここ杵築の宮を雲をつくような大きなものとしてください。そこに私の魂を祀っていただければ、八百万の神々を睨みすえ、あなた方天孫族に従わせることを約束しましょう。』

 

タケミカヅチは、『あいわかった。この国で一番大きな社(やしろ)を建てみあなたの魂を鎮めることを約束しましょう!!』と約定した。

 

こうして、タケミナカタはお隠れ(自刃)になり、その御霊を祀る高さ100bに及ぶ社(やしろ)がたてられたのである。

 

そして、その宮は杵築宮改め出雲大社(いずもおおやしろ)と呼ばれるようになったのである。

 

さて、信濃に退却したタケミナカタは守りを固め、タケミカヅチの追撃に備えた。

 

やがてタケミカヅチの率いる天孫族の軍勢は、行く先先の豪族を打ち破り従えつつ、とうとう信濃国境に迫ってきたのである。

 

タケミナカタにとっての正念場が、すぐそこに迫っていた。

 

『州羽の海へ』

タケミカヅチの軍勢の追撃を受けたタケミナカタは、信濃の国深く、諏訪湖の畔に陣を張り、その到来を待ち受けた。

 

負けたらあとのない背水の陣である。ほとなく、タケミカヅチが天孫族の大軍を率い信濃に進軍してきた。

 

タケミナカタは、モレヤや、すわの精鋭と共にゲリラ戦を展開。

 

地の利に勝るタケミナカタ軍はタケミカヅチの軍勢を各地で撃破。

 

一時は高志の国までタケミカヅチの軍勢を後退させた。

 

しかし、タケミカヅチが天候を操る呪術で、雷を起こすと、形勢は逆転。

 

雷に打たれたタケミナカタの軍勢は、多くの死者を出し、再び諏訪湖の畔まで後退を余儀なくされてしまった。

 

諏訪湖の畔まで後退したタケミナカタは、今度はモレヤと共に呪術を使い、天候を操りタケミカヅチの軍勢を翻弄。

 

岡谷から先、本拠の前宮への進軍は阻んだのである。

 

お互い多くの兵を失った両軍は、ここが潮時と、和議を結ぶこととなった。

 

まず、タケミナカタが、タケミカヅチに使者を立てて『私は、この信濃から一歩も出ません。信濃一国を安堵くだされば、あなた方に従いましょう。』と伝えた。

 

タケミカヅチは『是非もない。勇敢に闘われたあなた方の軍勢に敬意を表して、信濃一国を安堵いたしましょう。』と、返礼の使いを送った。

 

ここに和議はなり、信濃一国を守り通したタケミナカタは、後々まで英雄として民に称えられたのである。

 

古事記には、破れたタケミナカタがタケミカヅチに許しを求める場面がでてくるのだが、これは、天孫族の支配を知らしめるための誇大表記で、実際は、その後も信濃の支配はタケミナカタが行ったことを考えると、引き分けと見るのが正しいのではないだろうか?ともあれ、こういう形で、出雲族から天孫族に国譲りがなされ、後々の日本の礎が築かれたのである。

 

『科野の経営』

国譲りの争いも終わり、タケミナカタはモレヤの力を借りて信濃の経営に乗り出しました。

 

まず、妻のヤサカトメのために、諏訪湖の北の岸辺に春と秋に住まう屋敷を作りました。

 

『春宮』と『秋宮』です。

 

安曇族のヤサカトメが、故郷の安曇野により近い場所に住まえる配慮です。

 

と、同時に、諏訪湖の南北双方を固める意味合いもありました。

 

また、夏のお宿移り(遷座祭)には、故郷の安曇野に伝わる『お舟』を行列に加える配慮もしました。

 

タケミナカタとヤサカトメの間には21人の子供が産まれ、それぞれに、信濃各地の領主として、散会して行きました。

 

長男のカムヒコワケは水内の荘(現在の善光寺)に、四男のオキハギは佐久平にと言った具合に、それぞれ信濃各地で開拓と守護の役割についたのです。

 

そして、タケミナカタも、前宮から、もともと、次男のイズハヤオの領地であった山本郷(いまの神宮寺)に居館を写し、その住まいを『本宮』と名付けました。

 

もともと、住んでいたイズハヤオには、岡谷の荘を与え、北の守りを任せたのです。

 

ところで、ヤサカトメが春宮に移られたことに関連して、2つの奇蹟が起こりました。

 

一つ目の話。

 

ヤサカトメは、毎日化粧に使っていた、上社の湯を下社に持って行こうと考え、手のひらに湯をすくい、持って行きました。

 

その途中、指の間から点々とこぼれ落ちた場所から温泉が沸きだし、上諏訪温泉や大小の温泉が出来たのです。

 

最後に湯を浸した化粧綿を置いたところが下諏訪温泉の綿の湯になりました。

 

もう一つの奇蹟ですが、タケミナカタが佐久に巡検に出掛けた折に、饗応した土地の女性(にょしょう)の中に、それはそれはみめ麗しいヒメが一人おりました。

 

タケミナカタが名を聞くと女性(にょしょう)は、『私は、アラフネと申します』と答えました。

 

タケミナカタは、アラフネに恋をし、一夜の契りを結びました。

 

そして、産まれた子供が佐久平の領主となったオキハギなのでした。下社に逢いに来るのを禁じてしまいました。

 

しかし、そこは、男と女。

 

もともと熱愛していたふたりなので、本当は逢いたくてたまりません。

 

そこで、真冬のある夜、本宮で饗応の宴を開いたタケミナカタは、参列者が酔いつぶれて眠るのを待って、結氷した諏訪湖を渡り、ヤサカトメのもとへ通ったのです。

 

その足跡に氷の裂け目が出来ました。

 

これが『御渡』(みわたり)です。タケミナカタ自信も宴で酩酊していたため、千鳥足で、氷の裂け目も蛇行したそうです。

 

御渡には、上社から下社に渡る二本の筋の他に、佐久方向に渡る『佐久の御渡』がありますが、これは 、タケミナカタが佐久のオキハギとアラフネに逢いに行った足跡といわれます。

 

こうして、タケミナカタは、信濃のあちこちに自らの血縁者を置いてその経営を固めて行ったのです。

 

『そして、神に』

信濃一円を支配下に置いて安定した経営を確立したタケミナカタは、糸魚川にいた老いた母、ヌナカワヒメを諏訪に呼ぶことにしました。

 

糸魚川から、母を鹿の背に乗せ、大門峠を越えて、茅野の鬼場に来たときのことです。疲れた母を、村の人々が、酒と肴でもてなしてくれました。

 

酒と言っても当時は濁酒(どぶろく)で、肴と言っても鹿の肉ですが、ヌナカワヒメは、諏訪の人々のもてなしに大変感謝し、村の長に、糸魚川から持って来た翡翠の勾玉をお礼に差し上げました。

 

疲れたヌナカワヒメが座った石に跡がつき、その石は御座石と呼ばれ、諏訪の7石の一つとなったそうです。

 

ヌナカワヒメは、タケミナカタと家族に見守られ、諏訪で天寿を全うしました。

 

さて、諏訪のまつりごとですが、モレヤの支配していた時代からあった奇石巨石の磐座(イワクラ)や湛(たたえ)と呼ばれる日諸木(ヒモロギ)に諏訪の古代からの自然の精霊である『ミシャグジ』を降ろすことにより、土地と民の安寧を祈る方法を、タケミナカタは踏襲しました。

 

まつりごとの祈りはモレヤが踏襲し、これを行ったのです。

 

そして、自らは『現人神』として人々の調和を守る役割を担いました。

 

狩りの大好きなタケミナカタは、しばし八ヶ岳山麓に狩に出掛け、鹿や猪を狩っては持ち帰り、民びとと饗応をしたそうです。

 

これが、現在残る御頭祭や御射山祭の元になったそうです。

 

幾星霜の時が過ぎ、タケミナカタも天寿を全うし、天に召される時が来ました。

 

タケミナカタは、臨終の床で、遺言を残しました。『私が亡くなったら、その亡骸は前宮の御霊位岩の袂にうめてくれ。

 

そして、墓の上には天に昇るために藤の蔓をいけてくれ。妻のヤサカトメも、私の隣に。』『私の子供のうち、次男のイズハヤオの男の子(おのこ)を代々現人神(あらひとかみ)として、現人神(あらひとかみ)として、諏訪のまつりごとの象徴とすること。

 

そして、それを補佐するモレヤの子孫の男の子(おのこ)にミシャグジの秘技を継承させて、以後神長官として、大祝を補佐させる事。』『他にも、四人の神官を任命し、大祝と神長官を補佐させる事。』と、言い残しました。

 

そして、タケミナカタは天寿を全うし、天上から、諏訪と諏訪の民を見守る『神』となったのです。

 

その亡骸は、約束通り、前宮の御霊位石の隣に葬られ、やがて、タケミナカタのあとを逐うように亡くなったヤサカトメと共に祭られたのです。

 

神陵といわれるふたりの墓には二本の藤が植えられ太い方はタケミナカタ細い方はヤサカトメが眠っているといわれます。

 

タケミナカタの子孫であるイズハヤオの子供は、大祝(おおほうり)となり、代々『神氏(みわし)』を名乗り、諏訪の地に君臨する現人神(あらひとかみ)となりました。

 

そして、補佐するモレヤは神長官として、ミシャグジの秘技で祭を行い、その秘技を代々男の子(おのこ)に伝えて行ったのです。

 

神の時代から、人々の時代への変遷が、ここに始まったのです。

 

『モレヤの祭』

タケミナカタから、諏訪のまつりごとを任されたモレヤは、自らが信奉していた『ミシャグジ』をまつりごとの芯に据え、諏訪の支配を確立していった。

 

ミシャグジとは、7石と呼ばれる奇岩巨石、7木と呼ばれる日諸木(ヒモロギ)に、自然の精霊を降ろし、土地の安寧を祈る形態で、タケミナカタが諏訪に来る遥か前から行われていた祈りの形であった。

 

また、狩猟民族であった諏訪の民に、御射山祭や正月の蛙狩などの祭りを伝えたのもモレヤであった。モレヤは、7石のうち、前宮の御霊位石、杖突道の中腹にある小袋石、本宮にある硯石の三角点の中央に、屋敷とミシャグジの総社を構えいずれの場所にも直ぐ飛んで行ける地に住んだのである。

 

ミシャグジは、諏訪に限らず、黒曜石の文化圏に乗って北関東や南東北にも、社が点在し、その勢力が、そのまま諏訪信仰の勢力圏ともなったと言う。

 

そのミシャグジの秘技は、代々、モレヤの長男に屋敷にある祈祷殿で、長男に口伝(くちうつし)で伝えられてきた。モレヤの子孫は『守矢』の姓を名乗ることとなった。

 

そして、諏訪信仰の根幹である諏訪神社(いまの大社)の筆頭神官として、現人神の神氏(みわし=タケミナカタの子孫)を補佐してきたのである。

 

また、守矢氏は、大和政権にもコネクションがあった。

 

守矢氏のように、朝廷に置いて、神祇官を代々勤めてきた物部(もののべ)氏である。

 

物部氏は、日本の古い神々を大事にする豪族で、当然、ミシャグジを奉じる守矢氏とも繋がりがあった。

 

物部氏が全盛期だった頃の当主は守矢との繋がりからか、自ら『物部守屋(もりや)』を名乗ったのである。

 

しかし、朝廷の国教を仏教にしよぅと言う蘇我氏や聖徳太子と対立。

 

守屋は、敗退して虐殺されてしまった。

 

その子倉足(くらたり)は、朝廷のちからが及ばない諏訪に落ち延び、守矢神長官はこれを受け入れ、自らに次ぐ祢宜太夫(ねぎだゆう)の位を与えた。

 

そして、朝廷の神祇官だった物部氏が蓄えていた様々な国の神祇を教えてもらい、それを洗練して、諏訪信仰の形を整えて行ったのである。

 

諏訪上社の神体山の守屋山の名前と、山頂の石祠の祭神が物部守屋なのは、この辺りに理由があるからだとおもわれる。

 

今でも、杖突峠の向こう、藤沢と言う集落には、物部氏の子孫だと言う一族の守屋姓の人々が物部氏を奉った神社をまもっている。

 

同時に、守矢神長官は、まつりごとを補佐する神官を置いたところが神長官は、守矢氏祢宜太夫は、物部氏権祝は、矢嶋氏神疑祝は、伊藤氏副祝は、守屋氏(守矢の分家)以後、明治維新待でこの制度は続いた。

 

タケミナカタを受け入れ、物部氏を受け入れつつ、ミシャグジの秘技を祭の中に残して行ったモレヤ=守矢は、実は狡猾な、諏訪一番の勝者と考えるのは、穿った見方であろうか?

 

『神(みわ)氏』と『金刺(かなさし)氏』

大和王朝(=朝廷)から遠く離れた信濃の地で、独立した祭政を行っていた神氏と守矢氏の一族ですが、朝廷の力が信濃に及ぶ時が来ました。

 

朝廷の舎人(とねり)、金刺氏が、大王(=大君、天皇)の命を受け、信濃調略に取りかかったのです。

 

越後から、信濃に入った金刺氏は、まず、タケミナカタ神の長男カムヒコワケを奉じる民の抵抗を受けました。

 

その抵抗は、凄まじく、金刺氏は、初戦から大苦戦を強いられたのです。

 

直接の武力では敵わないと悟った金刺氏は、作戦を転換し、懐柔策に方針を転換したのです。

 

すなわち、朝廷の権威を傘に着るのではなく、自らもカムヒコワケと、タケミナカタを信奉することにより、民の心を鎮め、支配を確立していったのです。

 

その証として、現在は善光寺になっている場所に、カムヒコワケの社水内大社を建て囲むようにタケミナカタを奉る武井、湯福、妻科の鎮守を置いたのです。

 

同様のへ方法で、塩田も調略した金刺は、さらに、もともとは、同じ朝廷の舎人であった安曇族とも、友好関係を定立。

 

満を持して諏訪の平に進みました。

 

そして、安曇族の女神であるヤサカトメを奉祭し、その館に下社を作り、諏訪の湖北の支配を確立したのです。

 

しかし、神(みわ)氏と守矢氏が支配する、湖南、八ヶ岳山麓には、手を出さず、神氏に使者を送り、和議を結び、自らは下社の祭主となったのです。

 

神氏は、湖北の支配を金刺氏に譲ったものの、東、南の信濃の支配権は変わらず 握り、前宮に館を構え、本宮の社壇を整備し、金刺氏を仲介人として、平和裏に朝廷との関係を構築していったのです。

 

後に、相争う金刺氏と神氏ですが、このときはまだ、友好関係を保っていたのです。

 

『ミソギ祝有員』

天皇家と同じように、万世一系、男子が即位し、神の血を守って来た、上社の神(みわ)氏ですが、奈良時代の始め頃、流行りやまいで相次いで男子が死去、姫のみが残る事態が生じました。

 

男子継承がきまりだった諏訪の神(みわし)氏にとって、これは由々しき事態です。

 

そこで、神長官守矢氏は、同じく男子継承で王統を継いでいる朝廷から、養子をとることを考えました。そこで、早速下社祭主の金刺(かなさし)氏 の斡旋を得て、桓武帝の第五皇子である有員(ありかず)を諏訪に迎えたのです。

 

諏訪に入った有員は、神氏の血を引く姫と婚姻をし、男子をつくり、神氏の命脈を繋ぎました。

 

そして、その男子が七歳になり、ミシャグジ下ろしを行うまで、自らが神の代理人となったのです。

 

有員は、畏れ大いということで、前宮には入らず、諏訪の平らをはさんで反対のミソギ平に居館を設け、そこにあったミシャグジの社で、神長官から、神下ろしを受け、諏訪の現人神(あらひとかみ)となりました。

 

そして、『これより、諏訪の神の末裔を大祝(おおほうり)と名乗ることにする。』と宣言し、『代々の苗字を諏方(すわ)と名乗る』と定めました。

 

 

こうして、神(みわ)氏は、大祝諏訪方氏となり、タケミナカタから続く血脈と大和朝廷の神世から続く血脈とが融合し、新しい『諏方(すわ)』家が誕生したのです。

 

有員の皇子からは、再び前宮を居館とし、七歳でミシャグジ下ろしを受け、大祝に即位するようになりました。有員は、御射山祭りの御狩の際に、誤って落命。

 

上社御射山にその墓があります。

 

さて、下社ですが、上社に大祝の制度が整うと、競うようにして、金刺氏が下社『大祝』を名乗るようになりました。

 

その事が、上社、下社の間の争いの火種となるのですが、それは、また後の話し。

 

facebook 谷澤 晴一氏より