縄文文明

縄文土器各種尖石考古館展示

 

心ひかれる造形美

 

世界の各地に古代文明があるが、学校で習う文明の歴史観のひとつとして、4つの大文明が最初に起こり、それ以降この流れを汲んでいくと習った記憶がある。

 

はたしてそうなのか、縄文文化とはよく聞くが縄文文明とはあまり聞かない。あえて文明とさせて頂いた。

 

文化とは何かと調べると、社会の仕組み、農業のやり方、暮らし方、食生活、文字、科学技術、その他色々、人間が作り出したすべてのことを表している。それは、地域や人間集団毎に独自色による違いが表れる。

 

では、文明とはなにかというと、集団や個人が創り出したものやアイデア(文化)がその便利さ、素晴らしさ故に、言葉や地域の違いを超えて広まったものを文明としている。

 

古代文明が栄えた時代、もしくはそれ以前から、日本は縄文時代であった。縄文時代は約1万5000年前(紀元前131世紀頃)から約2300年前(紀元前4世紀頃)にあたる。

 

その時代、日本では、石や鉱物を加工した石器や鏃(やじり)を使い、粘土で皿や鍋を作り、人々は原始的な狩猟採集生活を送っていたことになっている。

 

しかし、よく考えてほしい、誰もが知っている「縄文土器」や「土偶」は日本全国の遺跡からおびただしい数が出土している。

 

10円ハガキの料額印面部拡大

 

その中でも、縄文中期時代に代表される、10円の官製はがきの「料額印面」に採用された井戸尻の「水煙渦巻文深鉢」や、岡本太郎が衝撃を受けた越後馬高の「火焔土器」などは、「日本美術史のあけぼの」といっても良いほど現代の我々の心を引き付ける。

 

これは、実生活で使うにはあまりにも実用的でなく、現代の陶芸家でも大変だろうと思わせる、製作技術の高い造形がなされている。

 

この手の土器は日本全国いたるところから出土しているのである。

 

それでは、世界のこの時代の土器はどうかというと、金属の生産も始まっていたといわれるが、用途に応じた皿や壺などに彩色で文様を描き、表面を磨いたものが一般的で、これほどまでに手の込んだ外装を施した出土品は見たことがないのである。

 

縄文文明は、狩猟や漁撈、そして採集を生業として、世界最古の土器を生み出し、世界の先史土器の中でも群を抜く造形美を誇る土器を作り出していたのである。

 

 

黒曜石の広がり

 

縄文時代最大の黒曜石鉱山であった「星ヶ塔黒曜石原産地遺跡」がある。

 

そこから出土した黒曜石で作った鏃(やじり)は、理化学的産地分析により東北から東海地方まで極めて広い範囲に供給されていることが明らかにされている。

 

この広がりをみれば、縄文時代には大きな物流や情報のネットワークが存在していたと推察できる。

 

すなわち、経済活動が行われていたのである。

 

黒曜石で作られた鏃(やじり)は、最初は狩猟の道具として使われたかもしれない、しかし、これだけ人々が時間と手間を費やし、苦労して三角形に加工したものを狩猟と称して簡単に使えるだろうか、例えば鏃(やじり)を手本にて、加工した動物や魚の骨や歯を狩猟に使ったのかもしれない。

 

住居跡や土壙(どこう)などからの鏃(やじり)の出土を考えれば、最初は実用品として使われていたが、その後、黒曜石の鏃(やじり)はある意味、加工品の見本として活用されたとか、お守りやアクセサリー的な存在、精神的な何かの意味として広がったのかもしれない。

 

 

争いのない社会

 

縄文遺跡からは、人間の殺傷を目的に作られた武器が出土していない。また、殺害されたとみられる人骨も出土していない。そのことから、1万数千年の間、平和で食べ物も豊かな暮らしが続いていたと思われる。

 

各地の遺跡からは住居近くに墳墓や土壙といわれる、現代で言えばお墓が出土している。

 

そこには、粘土で皿や偶像などを作り土の中に死者とともに埋葬し弔っている。

 

すなわち、祈りの文化がそこにはあったと思える。

 

キリストが生まれて2000年と数十年の現在、それ以前の時代に1万年近く、とても長い期間、平和を維持し続けた文明があったのである。

 

考古学の発展により、日本各地で多くの土器や土偶、勾玉をはじめ加工された遺物の出土品を目の当たりにする。

 

縄文時代は原始的な狩猟採集生活を送っていたと思い込むのではなく、我々の住む日本列島は、生活の必需品はもちろん、死者への祈りを表すためになのか、精神的なものを表現するためなのか、鉱物や粘土で土偶や土器などの加工品をつくる卓越した表現力と技術力を持った人々がいた時代なのである。

 


諏訪の縄文大国

諏訪圏域は、東に八ヶ岳連峰が包むようにあり、八ヶ岳の北側には蓼科山が続き、その西には、黒曜石が出る霧ヶ峰や和田峠がある。

 

鏃(やじり)などの石器の材料に使われた黒曜石は特定の場所でしか取れず、下諏訪町の「星ヶ塔黒曜石原産地遺跡」の黒曜石採掘の遺跡から縄文時代には大規模な黒曜石鉱山が存在し、諏訪地域に住まう人々は黒曜石と各地の産物を交換するなど交流の要所として技術と情報が集まり発展していったと思われる。

 

岡谷市の「梨久保遺跡」茅野市の「駒形遺跡」「上之段遺跡」では黒曜石の物流拠点があったと思われる多量の加工前の黒曜石が出土されている。

 

八ヶ岳山麓では、旧石器時代の遺跡や遺物が多く発掘され、縄文中期には日本で最も人が集まっていた地帯の一つであった。

 

諏訪地域一帯の遺跡分布の密度・出土する土器の豪華さは、全国でも群を抜いており、当地が繁栄していた様子がうかがわれる。

 

民俗学フィールドワークの先駆者、鳥居瀧蔵の学問観より、富士見町の「井戸尻遺跡」などから縄文時代中期から晩期にかけて八ヶ岳山麓を中心に、中部日本から関東地方にかけて「井戸尻文化」とよばれる縄文文化が花開いていたとしている。

 

遥か昔の八ヶ岳の麓に縄文大国が存在したのである。