はじめに

私たちは教科書で、原始共産制から古代奴隷制、中世封建制、そして資本主義へと移り変わったと教えられた。また、搾取する側とされる側の分けられた対立軸があり、時代とともに発展していったとされている。はたして本当にそうなのか。諏訪の地では一揆のようなことは起こっておらず、領主と領民が御柱をはじめとして、多種多様なことを話し合って物事を決めていたようである。また、縄文土器や土偶の造形美のすばらしさをはじめ、各地の神社や仏閣を見れば、卓越した技術が垣間見られる。過去の連続性が現在ならば、固定観念を取り外し、今一度、周りを見直してみれば違った価値観に出会うことであろう。

本州最大の黒曜石の産地(旧石器時代)

黒曜石とは、金属のなかった旧石器時代から縄文時代にかけて、ナイフや鏃(やじり)、槍の穂先など鋭利な刃物などの石器として使われた素材である。外見は黒くガラスによく似て性質持っていて、割ると鋭い破断面になるのが特徴である。

 

尖石考古館展示の黒曜石の鏃

 

和田峠から霧ヶ峰にかけて、本州で最も良質な黒曜石の大産地があり、数万年前の旧石器時代の諏訪の人々は黒曜石の鉱山を開発し、本州の広い範囲に広めている。縄文中期には、三内丸山遺跡や大阪の遺跡でも和田峠産の黒曜石が発見されている。縄文後期には、東日本全域に大量に流通した黒曜石の大部分を占めたようである。

 

諏訪地域は黒曜石の物流が盛んになることで、各地との交流が盛んになり、情報と技術が集まる交流の要所だったのではないだろうか。

縄文文化の中心地 (縄文時代)

5千年前、縄文中期の八ヶ岳山麓は、縄文文化の中心であった。この地は黒曜石を背景とした手の技が巧みで、土器・土偶の造形に強く志向しており、数多くの遺跡が点在し発掘されている。
中でも「縄文のビーナス」「仮面の女神」など国宝の土偶や土器が出土している。

 

尖石考古館展示の土偶の破片

 

土偶は、形や大きさなど時期や地方によって違いはありますが、ほとんどは女性像であることから、安産や子孫の繁栄を祈る祭りや儀式の時に壊されたのではないかといわれている。なぜ、土偶が作られたのかは諸説あるが、そこには、ここに住む人々の信仰心が強く影響していることは間違いないだろう。

 

日本書紀の記述によれば、日本国の建国はこの時代の終わりに行われたとされる。

謎に包まれた時代 (弥生時代)

縄文後期以降の寒冷化に伴い、諏訪地方の遺跡数は一挙に減少し、弥生時代後期に復活してくるまで住居跡はほとんど見られなくなっている。しかし、金属器が普及する前の東日本では黒曜石の需要が一層高まり、各地で出土する黒曜石の石器から、その9割を下諏訪町の星ヶ塔産がまかなっていたようだ。
縄文人(現地人)が弥生人(渡来人)に侵略されたということではなく、渡来文化が入って来る中で、現地の文化と融合していったのが弥生時代なのかもしれません。

 

縄文土器や土偶に込められた古い諏訪信仰、縄文の石棒を御神体とするミシャクジ信仰や、狩猟神の信仰、御柱、などの信仰は、西日本で大和朝廷が形成され大きくなっている頃も、黒曜石の交易により諏訪を中心に東日本全域に広まっていたと思われる。

諏訪の神 (古墳時代)

諏訪の神話に、藤の蔓を掲げて諏訪に侵攻してきたタケミナカタに対して、この地を支配していたモレヤの一族が、鉄の鉤を掲げて戦ったとある。このことから、諏訪に鉄器を持ち込んだ一族は、後の上社の神長官になる洩矢族である。そして、ミシャクジ神の総本社を洩矢は名のっている。

 

古墳からも、南信の古墳群が中央と深いつながりを見せ、北信の古墳文化が中央とは別のルートの渡来人文化の形態を見せている中、洩矢の中心地だった上社周辺、西山の古墳群は中央と隔絶した形態をとっている。この事で、諏訪の地は中央とは別の第三の勢力があったと推測できる。

 

その後、中央とつながる古墳文化、馬事文化とともに、欽明天皇の金刺宮に仕えたとする金刺氏が諏訪に入ってきたようである。文書から推定される6世紀後半には、洩矢系と見られる古墳の築造は終わるが、滅ぼされたわけではなく融合し、ミシャクジ神の上に大祝(おおほうり)を立てる独自の信仰、いわゆる諏訪信仰の形態が出来上がったのである。

馬事文化の中心地 (古代)

黒曜石による山の民の交易ルートは、洩矢へ伝承され、金刺氏の馬事文化に運用され、機動力のある騎馬軍団へと成長し、中央と結びついていった。

 

9世紀初頭の坂上田村麻呂の蝦夷征伐にあたっては、騎馬武者姿の建御名方神がこれを導いたとされる話が残っている。また、延喜式に記された勅使牧32カ所の内7牧が諏訪と上伊那に置かれている。その実力からか、諏訪社の位階は急上昇して正一位となり、信濃国一宮と称される。平安時代の諏訪は、馬事文化の一大中心地となっていったのである。

 

諏訪信仰は、仏教伝来に対しても独自の習合を見せている。諏訪社の本地仏は諏訪湖を中心に曼荼羅を形成するように配置されている。諏訪神の霊力は仏教によって塗り替えられることなく、逆に強化・温存されている。

鎌倉武士の聖地(中世)

鎌倉幕府により権力の中枢が西から東へと朝廷から鎌倉武士団へ移ると、諏訪明神は八幡大菩薩と並ぶ重要な神となる。とりわけ、執権だった北条氏は諏訪明神を重んじた。御射山大祭に集った鎌倉武士たちは、この地の霊気に深く感銘を受け、全国に諏訪明神を勧請し、1万社ともいわれる分社の多くを成立させた。そして、元寇の際に神風を吹かせたと信じられた諏訪明神は、日本第一大軍神となる。

 

諏訪社の神人は、仏教の時代に肉食を許す「鹿食免」「鹿食箸」を全国に売り歩き、諏訪明神説話として加賀三郎伝説を広めた。神仏混淆の諏訪信仰は、貴族、武士、民百姓それぞれの階層に広く浸透していった。

高島藩と諏訪の民(近世)

戦国時代に戦国大名化した上社諏訪氏と下社金刺氏は抗争を繰り返し、金刺氏は滅亡するに至る。残った上社諏訪氏も武田による統治と信長の支配、秀吉による30余年の転封を経験したが、最後に諏訪(高島)藩主として返り咲いた。古代から近世まで一貫して一地方を領有し続けた稀有な例である。

 

城下は文化的中心地として栄え、中山道下諏訪宿は、甲州街道との交点にして唯一の温泉宿として街道随一の賑わいを見せた。

 

この時代の諏訪の民は、広大な八ヶ岳山麓におびただしい新田を興し、農閑期には、江戸に出て大森の海苔職人の半数を占めた。そこでの知識を生かし、天草を仕入れて寒冷乾燥地ならではの棒寒天産業を興している。また、江戸で鋸(のこぎり)鍛冶として名を知られた藤井甚九郎が高島藩の招きにより、諏訪に移住し、のこぎりの製造を始めたのが起こりで、信州のこぎりの製造の本場として発展し、全国に知られるようになった。献上品、特産品として凍餅や凍み豆腐、氷室に蓄えた諏訪氷、寒晒し蕎麦、味噌や酒など、百姓(農民とは限らない)は江戸、東国の広い市場に対して活発に商いが行われた。

日本の近代化を支えた製糸業(近代)

冬が長く、寒さが厳しい諏訪地方では、農業の副業として、蚕飼い・生糸づくりが盛んに行われた。明治政府が誕生すると、蚕糸業が近代化を推し進める殖産興業ととらえられ、イタリアやフランスなど製糸先進国の洋式技術を導入し、生産能率の向上を図る試みがみられた。世界遺産の官営富岡製糸場など有名だが、官ではなく民の力として、岡谷の製糸家、武居代次郎らは、機械のほとんどを木製にし、鍋を陶器にするなど実用化した独自の繰糸機械、諏訪式繰糸機を開発した。低価格、高品質を実現し生糸の工場生産体制が整えられたことで諏訪地域は産業化していく。

 

製糸業の中心地であった平野村は町制を飛び越えて岡谷市となり、山岳の小盆地に鉄道の開通、郵便、電信・電話の整備、電気の普及、学校や病院の設置、片倉館や劇場など福利厚生施設や娯楽施設が建設され、山間の農漁村が近代産業都市になった。

精密産業からハイテク産業集積地へ(現代)

戦前戦中に製糸産業の衰退から軍需産業に転換する中で、諏訪の企業は製造設備や技術集団などのインフラをそのまま継承していく。敗戦後、軍需産業の技術を継承し、精密、光学産業への転換を図る。

 

現在では、電子機器をはじめとするさまざまなハイテク産業に転進し、東京都大田区や東大阪市と並ぶ中小製造業の集積地として市場を世界に広げている。